人には、名前がある。
生まれたとき、
誰かにつけてもらった名前である。
両親の思いだったり、
祖父母からの贈り物であったり、
健康であってほしい。
幸せになってほしい。
そんな願いが、
名前には込められている。
ちなみに、
ボクの名前は少し変わっている。
名付け親は、
父でも母でもない。
当時、父が勤めていた
「大野石材」という石屋の二代目社長、
大澤伸光さんである。
後の、
メモリアルアートの大野屋である。
「光識」。
「光」は、
父・忠光から取ったのだろうか。
それとも、
伸光さん自身の「光」だったのだろうか。
「識」は、
見識の「識」だったのだろうか。
今となっては、
確かめることができない。
伸光さんは後に出家し、
大澤善行という法名を名乗った。
父・忠光も、
今年、亡くなった。
名付けてくれた人と、
父親。
二人とも今頃、
雲の上にいるのだろうか。
もし会っているのなら、
「光識は、あんなふうになりましたよ」
なんて話をしているかもしれない。
困ったものだ。
さて。
話を戻そう。
名前の話である。
人は生まれたとき、
ひとつの名前をもらう。
ところが生きているうちに、
その名前とは違う名前で
呼ばれるようになる。
名字で呼ぶ人がいる。
名前で呼ぶ人がいる。
「さん」をつける人がいる。
「くん」をつける人がいる。
呼び捨てにする人もいる。
肩書きで呼ばれることもある。
社長。
監督。
先生。
先輩。
親父。
おまえ。
あんた。
そして、
いつの間にか誰かがつけた、
あだ名というものもある。
同じ人間なのに、
呼ぶ人によって、
ずいぶん違う人物になる。
考えてみれば、
不思議なことである。
ボクにも、
いくつかの呼ばれ方がある。
「社長」
「出町さん」
「でんちゃん」
家族が呼ぶ名前は、
もっと違う。
ここは秘密にしておこう。
これらはたぶん、
どれもボクなのだろう。
けれど、
呼び方というものは、
人物を識別するためだけの、
単なる記号でも、
製造番号でもない。
そこには、
距離がある。
敬意がある。
照れがある。
親しさがある。
ときには、
怒りまである。
昨日まで「さん」だった人が、
いつの間にか呼び捨てになる。
ずっと呼び捨てだった人に、
ある日突然「さん」がつく。
たった二文字増えただけなのに、
そこには、
何年分もの人間関係が
動いていたりする。
反対に、
何十年会っていなくても、
昔のあだ名で呼ばれた瞬間、
人は一秒で、
あの頃へ戻ってしまう。
名前というものは、
案外ロマンチックな
タイムマシーンなのかもしれない。
そういえば、
ボクは人に勝手な名前をつける。
詩人の河合くんを、
普段は「のびちゃん」と呼ぶ。
ところが最近は、
知人の日浦監督がつけた、
「怪人ノビー」
という名前が気に入っている。
河合本人がどう思っているのかは、
よく知らない。
迷惑かもしれない。
しかし、
「河合くん」と呼ぶとき。
「のびちゃん」と呼ぶとき。
「怪人ノビー」と呼ぶとき。
ボクの中でも、
少しずつ彼が違って見える。
河合くんは、
一緒に仕事をする人である。
のびちゃんは、
長く付き合ってきた人である。
そして怪人ノビーは、
映画を食べ、
言葉と格闘し、
ときどき理解不能なことを言いながら、
それでもリングに立っている、
ひとりの登場人物である。
名前を変えただけで、
人間が、
物語の住人になる。
そう考えると、
あだ名というものも、
小さな創作なのだろう。
プロレスラーには、
リングネームがある。
俳優には、
芸名がある。
作家には、
筆名がある。
そして、
石屋の社長さんには、
法名があった。
本名とは違う名前を背負って、
人は、
もうひとりの自分を生きていく。
けれど、
どれが本当なのだろう。
戸籍に書いてある名前が、
本当の自分なのか。
誰かが愛情を込めて呼ぶ、
あだ名の自分なのか。
仕事で呼ばれる、
肩書きの自分なのか。
たぶん、
全部、
本当なのだと思う。
人はひとつの名前で
生きているのではない。
誰かに呼ばれるたび、
少しずつ違う自分を
演じながら生きている。
だから、
人との関係が終わったとき、
案外いちばん先に消えるのは、
その人ではなく、
その人だけが呼んでいた
「自分の名前」なのかもしれない。
もう二度と、
あの呼び方で
呼ばれることはない。
そう思ったとき、
人は初めて、
別れというものを知る。
逆に、
新しい呼び方が生まれたなら、
そこには、
新しい関係が
始まったということなのだろう。
名前は、
自分のものだと思っていた。
けれど本当は、
名前とは、
自分と誰かの間にあるもの
なのかもしれない。
呼ぶ人がいて、
振り向く人がいる。
その短い距離の中に、
人間関係というものは、
案外ぜんぶ入っている。
だから今日も、
誰かに名前を呼ばれたら、
少しだけ、
ちゃんと振り向こうと思う。
いつまで、
その呼び方で
呼んでもらえるかは、
誰にもわからないのだから。
さて。
しばらく仕事で出張している嫁が、
もうすぐ家へ帰ってくる。
帰ってきたら、
なんと呼ぼうか。
……まあ、
考えて呼ぶものでもないか。
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MITSUNORI DEMACHI
株式会社ゆかし 代表取締役


