昔から、よく言われる。
「人を信じすぎる。」
「期待しすぎる。」
たしかに、
その通りなのだろう。
他人は、
思い描いた通りには動かない。
こちらが信じた分だけ、
違う景色を見せつけられることもある。
だから時には、
「裏切られた。」
そう思うのかもしれない。
けれど最近、
少しだけ考え方が変わった。
裏切られたのではない。
ボクが、
「その人を信じた」のである。
その違いは、
思っているより大きい。
最初から何も望まなければ、
傷つくこともない。
期待しなければ、
失望することもない。
けれど、
それでは誰とも、
真のタッグパートナーは組めない。
人は、
信じるから傷つく。
傷つくから、
また人を知る。
それは弱さではなく、
次の景色を見たいという、
人間の性なのかもしれない。
いや、
プロレスラーの生き様も、
きっとそうなのだ。
リングに上がれば、
相手の技を受ける。
痛いとわかっていても、
背中を預ける。
タッグを組めば、
相手がそこにいると信じて、
ロープへ走る。
裏切りさえ、
プロレスでは物語になる。
それでもまた、
誰かと組む。
誰かと闘う。
そして、
またリングへ上がる。
映画という仕事のリングも、
きっと同じである。
勝つ日もある。
負ける日もある。
誰かを信じ、
作品を信じ、
仲間を信じる。
そして、ときには、
自分の見る目さえ疑いながら、
またロープをまたいで
リングへ上がる。
考えてみれば、
「信じる」という言葉は、
少し不思議である。
信じた結果が正しかったから、
信じたことになるのではない。
間違っていたとしても、
信じた瞬間の自分まで、
間違いだったことにはならない。
だから、
人を見る目がなかったと、
自分を責め続ける必要もないのだろう。
ただし、
信じることと、
事実から目を逸らすことは違う。
約束は約束。
責任は責任。
そこは、
きちんと見なければならない。
それでも、
人を信じることまで
やめる必要はない。
他人の夢を生きるのか。
自分の夢を生きるのか。
その答えは、
観客席には落ちていない。
リングの上で、
七転八倒して、
もがいて、
それでも立ち上がった者だけが、
いつか知ることのできる
境地なのだろう。
憧れのレスラーを見ていると、
時々思う。
強いから、
立っているのではない。
立ち上がるから、
強くなっていくのだ。
だったらボクも、
もう少しだけ、
人を信じてみようと思う。
それが間違いだったら、
そのときは、
また立ち上がればいい。
信じるということは、
心の中で誰かを思うことではない。
傷つくかもしれない場所へ、
それでも自分から
一歩踏み出すこと。
だから、
「信じる」は、
気持ちではなく、
行いなのだ。
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MITSUNORI DEMACHI
株式会社ゆかし 代表取締役


