【REVIEW】『特撮喜劇 大木勇造 人生最大の決戦』映画評|僕らにも怪獣は退治できる!(切通理作)

 本作で怪獣ヴァイラスキングに立ち向かう面々が属するのは「ギャラクシー商会」という会社。ギャラクシーとはつまり銀河。『ウルトラマンギンガ』監督の一人だった石井良和氏の掲げた狼煙としての自主巨大怪獣特撮映画の中の符牒として、特撮ファン、そしてウルトラマンファンである自分は嫌が応にも期待を高めた。

 最初本作の予告編やポスター、スチル写真で、ヴァイラスキングを見上げる雄々しき男の後ろ姿や、横一列に並んで歩く様々ないでたちの大人たちの姿を見た時には、たとえば昭和ノリの、商店や町工場といった市井で働くの者たちが怪獣に立ち向かう、一昔前の人間同士の絆を想い出せるような、力強くも、優しくおおらかな世界をイメージしていた。

 だが映画を観て、ビックリした。およそ真逆な、そういうことはもう成り立たないという前提から描かれている内容だったから。

 「大木勇造」という、タイトルロールでもある勇ましい名前の主人公は、コロナ禍でリモートのやりとりが主となっている間に、会社からクビ宣告を受けてしまう。

 大木はエリート風を吹かせ、仕事をさぼって若手社員に押し付けていたという、決して褒められるべき人間ではなかったことが観客に示されるが、それでも、同じ仕事の現場で息を吸うという環境のないところで、突然自分への評価だけが下される怖さは現代的だ。リモート下で、これからの社会はどんどんそうなっていくと思わされるものがある。

 上司にも電話がつながらず、会社から消毒済みの私物が送り返されてきた大木は、上司宅へと直談判に向かうものの、返礼代わりに玄関先から放り投げられたのはアベノマスクを入れた袋。それでももったいないからなのか、雨でずぶぬれになりながら、あの小さなマスクを被っている大木勇造の顔は、ほろ苦さ満点だ。

 「こいつにもいいところがある」という共感のさせ方ではなく、情けなさ、足元のおぼつかなさのツボを突くことで、そこからにじみ出る匂いを、我々観客に空気感染させているがごとき描き方にみえる。

 彼の再就職先である「ギャラクシー商会」は、名前だけはスケールが大きいものの、壁には「儲かることなら何でもやろう」と貼り紙がある。

道に落ちたマスクを拾って除菌する「マスク事業部」。粗大ごみとして出された電化製品を、回収トラックが来る前に持ち帰る「回収業務課」。家電ごみを修理する「リサイクル事業部」。それらを転売交渉する「営業推進課」。

外からは「ゴミ拾いの会社」呼ばわりされているだけあって、なんだか考えるだけで脱力してしまう仕事ばかり。電化製品ならまだしも、誰かの口に付けてから捨てられたマスクを、もし観客の自分がそれと知らず、格安だからといって使うということを考えると、「うげっ」となる。不幸の連鎖に自分も組み込まれてしまったかのようだ。

 コロナ禍で実質上、社会に経済活動が十分に回っていない。だが人は生きていかなければならない。持たざる者は、落ちたものでも利用して生きて行く。「お前も他人事じゃないんだよ」と突き付けてこられたかのようだ。

 石井良和監督が以前に手掛けた『ゲームマスター GAME MASTER DeathSUSHI』でも、生き残るためなら、人はどんなにあさましくもなれるというデスゲームが描かれていたが、本作ではそれがゲームの範囲内ではなく、ひとつの会社という縮図となっている。

その各部署の人たちがまた、時にギャグめかして描かれてはいるが、要は「清く貧しく美しく」という言葉の裏を行く人たちなのだ。

「マスク事業部」担当は、犬のぬいぐるみを被ったままで筆談する自称元ひきこもり。「フィットネス事業部」担当は誰も生徒がいないのにヌンチャクを振り回すブルース・リーおたく。「回収業務課長」は身体をクネクネする異様なダンスで有名になろうという「野心」(妄想)を持つ。「リサイクル事業部」担当は、1人で黙々と機械をいじりながら、いつか腐った政治家たちを一新し世直しをするための爆弾を隠し持っている。

対外的にちゃんとしていなければならないはずの「営業推進課」担当は赤字をアタリ馬券で補填しようとし、さらに運勢を良くするまじないのためにいかがわしい像を買わされ、借金の取り立てに遭い臓器販売するまで追い詰められている始末。

なのに社長付の女子社員は、いつも携帯に首ったけのトレーダー気取りで、社内のことには冷淡に見える。

会社としてひとつにまとまっている必要があるのかどうかすら、疑問を覚える人たちだが、コロナ禍でよりつながりが希薄になり、共通の基盤すら疑わしくなった我々の現実の延長上にある世界と言えるかもしれない。

 社員一人一人のエピソードは、部署巡りをする大木の目線で順番に描かれ、つまり一堂に会する場面は少ない。

 一つ一つバラバラなエピソードが描かれ、そして最後街に怪獣があらわれて、その「風変わりな人たち」が一転して共に怪獣に立ち向かうことで、その時だけ「祝祭」のように見える……という構図になっているのだろうか。

 怪獣出現シーンは映画の冒頭から提示され、途中何度かイメージが描かれるが、その登場の発端は偶然の作用によるものに見え、特に物語上の伏線があるわけでもない。

 まったく唐突に打ち上げられた花火のようなこの怪獣に「合体怪獣 ヴァイラスキング」と筆文字でスーパーが出る。まるでバラエティ番組のような演出だが、それまでダウナーな展開だった映画の世界を活性化させる装置そのものが怪獣なのだと思える。

 また怪獣は劇中の設定で、借金苦に喘いだ営業推進課長が宇宙生物と合体して生まれた存在であることから、位置的には彼ら全員の中から生み出された膿のようなものかもしれず、それをみんなで取り除くという疑似体験は、彼らの少なくとも心象風景にとっては、慈雨のごときものだったのかもしれない。

 社内が招いたそんな怪獣騒ぎすらも、被害者のふりして補償を取る契機にしようと気炎を上げる社長の下で笑い合う大木ら「ギャラクシー商会」の面々は、どんなに基盤がなくなった世界でも、そこで生き抜いていこうという我々自身の合わせ鏡となり得たようである。

切通理作(映画評論家)