リストラされた主人公・大木勇造(藤田健彦)が転職先の「ギャラクシー商会」社屋でさまざまな部署をめぐっていく。階段を上れば(たまに降りるけど)、そこにいるのは屈強の怪人たち。ほぼ全編、彼らと格闘する大木勇造の物語。どこかで見たことがあるな。ああ、そうだ、『死亡遊戯』じゃないか。すぐにわかる。だれもがそう思う。
石井良和の最新監督作品『特撮喜劇 大木勇造 人生最大の決戦』(2022)に関しては、まずその映画愛、もしくは映画的記憶について議論が尽くされることだろう。とりわけ、娯楽映画作品について。ブルース・リーの真似事をする格闘技おたくも出てくる。宇宙人や着ぐるみ怪獣だって登場する。師匠筋の鈴木則文作品もあれば、香港映画の匂いも立ちこめている。すべて石井が愛した映画たちへの片鱗であり、ほとんどそれらへのオマージュで構成されているといっても過言ではない。ただ、それだけに固執して作風を断じることにはためらいがある。なぜなら、この映画ほど石井良和という映画監督の人格、たたずまいをそのまま写し取った作品はほかにないと思えるからだ。
筆者が石井良和と初めて会ったのは、忘れもしない2009年9月末のこと。映画『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』(2010)のパリ・ロケで、凱旋門近くの路地裏で一時の休息をとっているときである。筆者は東宝宣伝部に雇われたオフィシャルライターとして、石井良和は演出部の合成担当として、撮影隊に帯同していたのだった。
大所帯の現場はにぎやかで楽しかった。しかし、同じくらい「人疲れ」もしていた。映画の現場は決して楽しいことばかりではない。あのときも路上でうなだれるように座っていたと思う。そんな筆者に、撮影隊に合流したばかりの石井良和はそっと近づいてきて、遠慮がちに、でも優しく声をかけてくれた。すぐに話が弾んだ。何を話したのか、詳細は思い出せないが、とにかく「救われた」との印象が強い。犬のフンとタバコの吸い殻にしか落ちていないようなパリの小汚い風景はすぐに見違えるように美しくなり、その後、ロケ移動したプラハでも地ビールを片手に楽しい毎日を送ることができた。あのバカバカしくも心が弾んだ日々。石井は撮影のない時間、フランスでもチェコでも観光に赴くどころか、ビデオ屋めぐりを繰り返した。「お宝」を見つけたときのあの笑顔。こんなお茶目で熱心な映画バカはいない。以来、筆者にとって石井良和は他に類を見ない映画娯楽の探求者であり、気の置けない大切な友人のひとりとなった。
映画『大木勇造』を前にすると、石井良和その人の人柄や日常がにじんで心を撃たずにおかない。というより、もはやこれは、映画の形を借りた「自我スケッチ」としていいのではないか。
導入部、いきなり時代と会社にブチ切れた大木勇造こと藤田健彦のクローズアップが飛び出す。不満をまき散らす大木勇造の怒号は、やはり石井その人だろう。コロナ禍をめぐる不遇は石井にとっても例外ではなく、生活での支障をどれほど筆者も耳にしたことか。
たとえば、大木勇造同様、石井もゴミ収集のバイトをしていた。どんな「掘り出し物」があっても、収集人はそれを自分のものにしてはいけないのだという。就業規則にそう書かれているらしい。そのことも石井との雑談で知った。劇中では、再利用できそうな廃品を会社に持ち帰っている場面がある。石井の体験から生まれた素直すぎる描写だろう。
撮影が行われたのは2021年5月のこと。今やコロナ禍を描く作品は増える一方だが、特撮という枠組みで男の怒りを描いた作品となれば、この『大木勇造』が最初なのではないか。まさに、特撮版『茜色に焼かれる』である。坂野義光監督作品『ゴジラ対ヘドラ』(1971)でも明らかなように、特撮映画は時に社会や世相を映す鏡となる。特撮を通して日常を描くことができるのである。石井はそれを個人のレベルで体現しようとしている。換言するなら、石井にとって特撮は日常であり、同じ空間にコロナもおのれの生活もあるのだ。それが石井にとっての映画なのだ。時事性をジャーナリスティックに気取って追いかけているのではない。ただただ等身大なのだ。これほど大衆目線においてリアルかつ、絵空事の世界観はあるだろうか。そんな映画、たぶん石井にしか撮れない。
石井にはお金がなかった。お金がないと、人間は先鋭的になる。結果、石井の創意工夫はいよいよケレンを増していった。ミュージカル描写もその一例だろう。中年オヤジの恋愛描写だって、世の閉塞感からの反動が生んだシロモノに違いない。ついにはバート・I・ゴードンよろしく、宇宙人の巨大化→合体怪獣の出現、「くねくね体操」を使った目くらまし作戦をつるべ打ちするのである。ああ、なんという破壊的脱力感だろう。
観客によっては、モブシーンの欠落を惜しむ向きもあるだろうか。せっかくの巨大怪獣も、逃げ惑う群衆がいなければただの木偶。今少しの製作費が石井の手にはなかったのか、と。しかし、その観測は間違っている。恐らく石井、あえてモブシーンを外したのではないか。埋め尽くすべきは映画館の座席。そう、この映画を見る観客こそクライマックスを担う群衆の担い手であった。その意味では、これは優れた参加型体感映画でもあった。
さても、映画『大木勇造』は、石井にとって数えて3本目の自主企画映画でもある。『ゲームマスター DEATH SUSHI』(2017)、『アタック・オブ・ザ・ジャイアントティーチャー』(2019)という前2作と比較しても、物語、表現ともに石井映画の集大成となっていることは火を見るより明らか。毎日、散歩に連れて歩いている飼い犬の柴犬・雄三(!)だって出演している。あらゆる持ち駒を使って石井は勝負に出た。この映画こそは石井良和という映画監督の名刺。ここには石井の決意がある。石井の夢がある。石井の優しさがある。この映画を通して、誰もが石井を深く知る。きっと石井を好きになる。彼の監督人生最大の決戦に勝利をもたらすのは、これを読んでいるあなた自身なのである。石井良和に「よりよい明日」が永遠に訪れんことを!
賀来タクト (映画文筆家)*パンフレットより
Written by
切通 理作
1964年東京都生まれ。文筆家、批評家、映画監督。映画・アニメ・特撮を中心に、文学、音楽、社会問題などを横断して執筆。『宮崎駿の〈世界〉』で2002年第24回サントリー学芸賞を受賞。著書に『怪獣使いと少年』『山田洋次の〈世界〉』『情緒論』『本多猪四郎 無冠の巨匠』など多数。2017年には『青春夜話 Amazing Place』で映画監督デビュー。

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