映画『還り花』製作総指揮 飯塚欣司インタビュー|ゼロ地点から再起、日比合作映画に託した終わらない夢。

製作総指揮 Interview

飯塚欣司(いいづかきんじ)

1969年東京中野区生まれ。10代より本格的に演技を学び、テレビドラマ「花のあすか組」などに出演。俳優の他にバンドでの音楽活動を経て、企画・プロデュースの分野へ進む。その後、業界を横断する大規模プロジェクトのマネジメントや、国際交流、多様な共生社会の実現、未来人材の育成など、幅広い事業活動に携わる。

豊富な人生経験と国内外に築いてきた人脈を生かし、国際長編映画『Sampaguita/サンパギータ』では、企画から興行まで製作総指揮としてプロジェクトを牽引。2024年に同作にて劇場公開を果たす。

( Chapter 01 )

映画館は、近所の公園だった。

──飯塚さんが、映画を作ろうと思った原点から聞かせてください。

飯塚欣司エクゼクティブ・プロデューサー(以下、飯塚プロデューサー):映画には、人の心を動かし、人を変える力があると思っています。一人ひとりが変われば、世の中も少しずつ変わっていく。私自身、映画に人生を動かされてきました。

子どもの頃からブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れ、強くなりたいと身体を鍛えました。その後は、映画の登場人物のように、誰かへ良い影響を与えられる人間になりたいと思い、俳優を目指して演技を学びました。

人生には浮き沈みがありましたが、そのたびに映画から励まされ、背中を押され、癒やされ、学んできました。映画から受け取ったものは、いまも私の血肉の一部として生き続けています。

──最初に「映画って面白い」と感じた作品を覚えていますか。

飯塚プロデューサー:家から三分ほどのところに、中野オデヲン座(1950〜1979年閉館)という二本立ての映画館がありました。公園へ行くような感覚で、よく映画を観に行っていました。

『タワーリング・インフェルノ』(1974年)を観れば、デパートで火事が起きないか心配し、『ジョーズ』(1975年)の後は江ノ島の海でサメを警戒する。『スター・ウォーズ』(1977年)を観れば、自分にもフォースが使えるような気がした。映画の影響を、いちいち真に受ける子どもだったんです(笑)。

父と新宿ミラノ座(1956年開館、2014年閉館)で観た『ミッドウェイ』(1976年/ジャック・スマイト監督)も忘れられません。内容はよく分かっていなかったのですが、約千席ある映画館の大画面と音の迫力に、ただ圧倒されました。映画館へ行く前夜は、遠足の前のようにワクワクして眠れなかったものです。


なかでも私の人生のバイブルは、『ロッキー』(1976年)です。何度打ちのめされても、心の火を消さず、もう一度立ち上がる。その姿に、何度も助けられてきました。

私にとって映画は、まず楽しいレジャーであり、エンターテインメントです。その感覚は、いまも変わっていません。

( Chapter 02 )

ゼロ地点から、もう一度。

──映画以外で、現在の飯塚さんを形づくっているものは何でしょうか。

飯塚プロデューサー:私は16歳で俳優を志し、養成所で演技を学びました。その後、身ひとつの実力で勝負したいと思い、未経験からプロゴルファーを目指して、千葉県のゴルフ場で住み込みの修業もしました。

ところが、交通事故で頸椎を損傷し、その道を断念しました。東京へ戻って宅地建物取引士の資格を取り、建設会社へ就職しました。27歳でフィリピン出身の妻と結婚し、2007年には株式会社Con4tableを創業しました。

そして創業から2年後、腰の病気による緊急手術を受け、一日にして下半身麻痺となりました。住宅ローン、二人の子ども、軌道に乗りかけた会社を抱えたまま、歩くことも営業することもできない。焦りから投資にも失敗し、莫大な負債を背負いました。まさに人生の底でした。

それでも「わずかでも前へ進め。絶対に止まるな」と、自分に言い聞かせました。12年ほどかけて一歩ずつ人生を立て直し、マイナスの領域から、ようやくゼロ地点へ戻ってきたという感覚です。

現在も身体には麻痺が残っています。ただ、その経験によって、弱い立場に置かれた人の気持ちや、どん底にいる人の心を、頭ではなく身体で知ることができました。

失ったものだけでなく、この経験から得たものもある。その意味を見つけながら、いまも前へ進んでいます。

──映画を作っていない日は、どのように過ごしていますか。

飯塚プロデューサー:普段は会社経営者として、建設、不動産、ファイナンシャルプランニングなどの仕事をしています。中小企業の経営者なので、定休日はあってないようなものです(笑)。

身体が不自由なこともあり、何も予定がない日は、ひたすら休んで充電します。実は、その「何もない一日」に、とても幸せを感じます。何もない普通の時間が、決して当たり前ではないと知っているからです。

家族の誕生日や記念日には、できるだけ全員で集まります。これは、家族のつながりを大切にするフィリピン文化から受けた影響も大きいと思います。

『還り花』のロケ地として協力していただいた、新中野の「あぶ家」へもよく行きます。餃子、炙りシメサバ、あぶそば。どれもおいしいですよ。

( Chapter 03 )

妻と仲間と、海を越える。

──さまざまな経験を経て、なぜ今、映画を作ろうと思ったのでしょうか。

飯塚プロデューサー:ようやく人生のゼロ地点へ戻ってきた頃、世の中はコロナ禍の最中でした。旧知の俳優や制作者たちが活動の機会を失いかけている姿を見て、何か新しい機会をつくれないかと考えました。

私自身、若い頃は夢を抱きながら、大きな縁や機会に恵まれず、エネルギーを持て余し、もがいていた時期があります。

人生の後半でもう一度、到底不可能に見えることへ挑戦したい。こんな私だからできること、こんな私にしかできないことがあるのではないか。そう考えて、映画製作へ踏み出しました。

どうやら私は、「挑戦なき人生は退屈だ」と考えてしまう性分のようです。また大変な思いをするかもしれないのに(笑)。

──『還り花』の舞台を、フィリピンのボホール島にした理由は何ですか。

飯塚プロデューサー:会社の事業の一つとして立ち上げた映画製作部門「Con4table Films」では、日本と海外をつなぐ作品を作り続けたいと考えています。

私はフィリピン出身の妻と国際結婚をしています。異なる文化や価値観に触れることが、日常の一部になっています。そこで、家族旅行を兼ねて実際にボホール島を訪れ、「神の小さな楽園」と呼ばれるこの島を、映画の舞台にしようと決めました。

海外撮影は費用もかかりますし、言葉や商習慣も違います。インディーズ映画としては、無謀とも言える挑戦でした。

妻の瀬梨奈は、共同プロデューサー、通訳、ロケーションコーディネーターとして、撮影交渉、車両、船、宿泊、食事など、現地で必要となる多くの手配を担いました。妻がいなければ、この撮影は実現しなかったと思います。

──主人公と飯塚さんに、重なる部分はありますか。

飯塚プロデューサー:主人公は、私とは正反対と言えるほど、心身ともに純粋な青年です。ただ、困難に直面しても諦めず、前へ進もうとする姿には共感します。そこは自分と重なるかもしれません。彼がもがきながら進んでいく姿を見ると、やはり胸が熱くなります。

──撮影現場で、いまも忘れられない出来事はありますか。

飯塚プロデューサー:日本とフィリピンから、延べ40人を超えるキャストとスタッフが参加しました。船の大きさが予定と違って全員が乗れなかったり、現地で撮影許可の交渉をやり直したり、晴れすぎて雨の場面が撮れなかったり。海外の島での撮影は、予定どおりに進まないことばかりでした。

それでも、現地の皆さんはとても温かく協力してくださいました。何より、事故なく必要な場面を撮り終え、全員で無事に帰国できたことに感謝しています。

特に忘れられないのは、日本で撮影したラストシーンです。雨が一瞬止み、雲の切れ間から差した光が、絶妙なタイミングで主人公の顔を照らしました。あの瞬間は、鳥肌が立ちましたね。

ほかにもいろいろな出来事がありましたが、それは舞台挨拶のために取っておきます(笑)。

( Chapter 04 )

挑戦なき人生は、退屈だ。

──大きな予算や十分な環境がなくても、インディーズで映画を作る理由は何でしょうか。

飯塚プロデューサー:何もないところから、オリジナルのものを作り出すことに、夢があるからです。インディーズ映画でも、劇場公開にふさわしい作品を作るには、相応の費用がかかります。最初で最大の関門は、やはり予算の確保です。

必死に働いてお金を稼ぎ、頭を下げて資金を集め、その大切なお金を映画へ注ぐ。血と汗と涙がにじんだお金だからこそ、そこに強い情熱と魂が宿り、観客へ伝わるのだと思います。

条件が足りないからこそ、スタッフやキャスト、関係者が互いを気遣い、助け合う。同じ目標へ向かって困難に立ち向かう団結が生まれることも、インディーズ映画の魅力だと感じています。

──完成した『還り花』を初めて観たとき、どのように感じましたか。

飯塚プロデューサー:企画、準備、撮影と、長い時間をかけて積み重ねてきたものが、一本の作品になる。初めて完成した映像を観たときは、それまでの出来事が走馬灯のようによみがえり、感無量でした。

一方で、初めて作品を観る観客の目線を、最も意識する瞬間でもあります。感じたことや気になった箇所は、その後の修正作業のために、随時メモしていきました。

ぜひ注目していただきたいのが、約400年前に建てられたバクライヨン教会です。珊瑚石で造られた建物、天井のフレスコ画、荘厳な祭壇。建設の仕事に携わる者としても、撮影を許されたことは奇跡のように感じました。

撮影前には、妻とともに神父様へご挨拶し、撮影の無事を祈って祝福を授けていただきました。無事に撮影を終えられたことを、心から感謝しています。

──最後に、この映画をこれから観る方へ、メッセージをお願いします。

飯塚プロデューサー:悠久の自然は、人間の思うとおりにはなりません。それでも自然は、いつでも私たちを静かに見
守り、無償の恵みを与え続けています。

『還り花』を通して、そんな人間と自然、その「あいだ」にあるものを感じていただけたらと思います。

私たちはこれからも、日本と海外をつなぐ作品を作り続けたいと考えています。インディーズ映画としては、無謀に見える挑戦かもしれません。

もし映画を作っていなければ、今頃はベンツにでも乗って、豪遊していたかもしれません(笑)。それでも私は、また映画を作ってしまいました。

どうやら私の挑戦は、まだ終わらないようです。私たちの熱意と挑戦を、温かく見守っていただけたら幸いです。