全部を理解してしまったら、遊べない。
説明が少し足りない。
少し分からない。
あえて、すべてを伝えない。
もちろん、
そのまま通り過ぎてしまう人もいる。
けれど、
立ち止まった人は考える。
これは何だろう。
なぜ、ここにあるのだろう。
もしかすると、こういうことなのだろうか。
そして、自分なりの何かを、
その空いた場所に、
そっと意味として置いてみる。
余白とは、
そういう場所なのかもしれない。
映画も、明快で分かりやすい情報だけを、
伝えるものではない。
語られなかったこと。
映らなかったこと。
台詞と台詞の間。
映画が終わったあとにも残っているもの。
余白や余韻というものは、
伝えなかったものではなく、
余らせて伝えたものなのだと思う。
作り手が100まで説明してしまえば、
受け手は100を受け取るしかない。
だから、70くらいでやめてみる。
残った30を、
観た人が勝手に埋めてくれる。
すると不思議なことに、
70と30を足した100ではなく、
作り手が考えてもいなかった
101番目の何かが生まれることがある。
それが、創作の面白さなのかもしれない。
考えてみれば、
ボクが小説よりも、
詩に惹かれてしまうのも、
そこに理由があるのだろう。
詩は、すべてを説明してくれない。
一行と一行のあいだに、
書かれていないものがある。
その書かれていないものを、
読む人が自分の記憶や経験を持ち込んで、
勝手に補ってしまう。
同じ詩を読んでも、
同じものを受け取るとは限らない。
それでいい。
むしろ、それがいい。
分かりやすく伝えることは大切だ。
映画の上映時間も、
上映場所も、
監督も出演者も、
分かりにくくする必要などない。
けれど、
なぜ、この映画を作ったのか。
この人物は本当は何を思っていたのか。
最後のあの表情は何だったのか。
そこまで全部説明してしまったら、
観客が遊ぶ場所がなくなってしまう。
情報には、余白はいらない。
けれど、
創作には余白がいる。
そして最近、
これは創作だけの話ではないような、
そんな気もしている。
人と人との関係も、
案外そうなのではないか。
「私はこう思っている」
「あなたも、こうするべきだ」
そこまで相手の中を埋めようとしてしまえば、
二人の間には何も生まれない。
自分とは違うものが入ってくる場所を、
少しだけ残しておく。
それは、
相手を完全に理解することでも、
自分を完全に理解してもらうことでもない。
分からないまま、
そこを空けておく。
だから、
詩のように説明しすぎないということは、
案外、他人を信じることなのかもしれない。
全部言わなくても、
きっと何かを感じてくれる。
自分とは違うものを感じても、
それでいい。
そう信じて、
少しだけ黙ってみる。
余白とは、何もない場所ではない。
誰かが入ってくるために、
こちらがあえて埋めなかった場所だ。
そして、その空いた場所から、
自分一人では思いつかなかった
何かが、ふいに生まれることがある。
余白とは、
他者を信じて残しておく、
創作の場所なのだ。
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MITSUNORI DEMACHI
株式会社ゆかし 代表取締役


