若い頃は、正解というものが、
どこかにあると思いがちである。
仕事にも、人間関係にも。
そして、映画にも。
きっと正しい答えがあって、
そこへ辿り着けば、
物事はうまくいく。
そう思うものなのだろう。
けれど、ボク自身は子どもの頃から、
正解を求めることに、
あまり魅力を感じなかった。
だから算数やそろばん教室は、
大嫌いだった。
それよりも図画工作や書道教室、
あるいは国語、そして人名辞典が好きだった。
答えがひとつではない。
何通りものやり方があって、
何通りもの答えを出していい。
そこが好きだったのだと思う。
さて。
歳を重ねるほど、
世の中はそれほど精密には
できていないことを知る。
人と人には、
必ず少しのズレがある。
「わかりました。」
と言った人と、
「わかってくれた。」
と思った人の間にも、
ほんの少しのズレがある。
「やります。」
と言った人と、
「やってくれる。」
と信じた人の間にも、
僅かばかりのズレがある。
最初は、
ほんの数ミリだったはずなのだ。
ところが時間が経つと、
その数ミリが、
ずいぶん大きな距離になっていることがある。
たぶん、
それを「誤差」というのだろう。
映画も同じだ。
監督の頭の中にある映画と、
完成した映画には、
誤差がある。
つくり手が伝えたかったものと、
観客が受け取ったものにも、
誤差がある。
そこが面白い。
宣伝・配給する側が期待した動員と、
映画館へ実際に来てくれた人数にも、
当然、誤差がある。
これは、ちょっとシンドイ。
趣味で観戦するプロレスだって、
きっとそうだ。
レスラーが伝えたかったものと、
観客に伝わったものは、
必ずしも同じではない。
だから、
「伝えた」と、
「伝わった」の間にも、
誤差がある。
それでも、
映画はつくられる。
試合は行われる。
人は誰かと仕事をする。
つまり、
生きるということは、
「誤差をなくす作業」ではなく、
「誤差」を抱えながら、
それでも前へ進むことなのかもしれない。
ボクは昔から、
人に期待しすぎるところがある。
だから、
自分が思い描いたものと
現実が違っていると、
必要以上に傷つき、
何もかも嫌になることがある。
けれど最近、
少し考え方が変わった。
相手が間違っていたのでもない。
ボクが間違っていたのでもない。
ただ、
そこには「誤差」があった。
そう考えるだけで、
生きている呼吸が、
少しだけ楽になる。
もちろん、
「何でも誤差」で済ませてはいけない。
約束は約束である。
責任は責任である。
事実まで、
「誤差」という便利な言葉で
曖昧にしてはいけない。
けれど、
人間というものは、
マシーンではない。
昨日と今日でも違う。
好きだった人を嫌いになり、
嫌いだった人を好きになる。
夢を諦めたり、
諦めた夢を、
何十年も経って拾い直したりする。
ボクも、そうしてきた。
それくらい、
人間は不正確にできている。
ならば、
少しくらいの誤差は、
人生の故障ではない。
むしろ、
人間が人間であるための、
「余白」なのかもしれない。
映画の四角いスクリーンも、
プロレスの四角いリングも、
仕事も、人生も、
思い描いた通りには進まない。
四角四面じゃ、
とかくこの世は住みにくい。
そんなものなのだろう。
だから面白い。
今日のボクと、
明日のボクにだって、
きっと「誤差」がある。
その「誤差」のぶんだけ、
まだ変われる。
そう考えると、
人生というものは、
案外、
「正確でない」ほうが面白い。
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MITSUNORI DEMACHI
株式会社ゆかし 代表取締役


