映画は、編集によってもう一度生まれる。
そんなことを思いながら、
ボクは餃子屋「ダンダダン」で、
ホッピーセットの黒と餃子を2枚注文した。
ある監督から、
2026年版として再編集した仮全編が届いた。
YouTubeにアップロードされたファイル名は、
「20260916_全編」
約95分あった映画は、今回の編集で約80分になった。
以前、ボクはこの作品について、
客観的な立場から物語構成を見直し、
いくつかの編集案を提案書として、ある監督に渡していた。
これは、単に追加撮影を促すためのものではない。
今ある素材を、どう生かすか。
手元にある映像を、どう組み直せば映画が立ち上がるのか。
その可能性を探るための提案だった。
今回届いた映像には、その試みがいくつも反映されていた。
大きな変更点は、六つある。
まず一つ目。
全編を通して、各ショットの頭と尻を細かく切り詰めた。
二つ目。
物語の流れを止めていた不要なシーンを削除した。
この二つだけでも、映画全体の呼吸は大きく変わった。
約95分から、およそ80分へ。
ここまで思い切って切った監督の姿勢は、頼もしい。
映画は短くなった。
けれど、情報が減ったというより、
むしろ必要なものが前に出てきている。
三つ目。
シーン27から29にかけてのシークエンスを大きく再構成した。
この作品には、「不在」というひとつのテーマがある。
その感覚をより際立たせるため、
これまで存在していたシークエンスを丸ごと削除した。
その代わりとして、シルバーウィークには追加撮影を行う案も、
監督自身からメールで示されている。
四つ目。
あるメッセージ音を挿入した。
映像で説明するのではなく、
音によって観客の想像を少しだけ動かすための仕掛けである。
しかもこれは、ボクが提案した音ではない。
監督自身が搾り出したアイデアだ。
五つ目。
あるシークエンスのメインショットを変更した。
以前は、観客に意味を伝えすぎる編集になっていた。
今は、何が起きているのかを説明しすぎない。
観客が、自分で感じ取れる画面へと変わった。
その変更によって、映画は少しずつ観客へ委ねられるようになった。
そして六つ目。
今回、ボクがもっとも大きな変化だと感じたのが、
映画の冒頭である。
冒頭に、主人公の終盤の姿を先に置いた。
いわゆる、
フラッシュフォワード(flashforward)
と呼ばれる構成だ。
主人公がこの先どうなるのか。
その未来の一部を、観客は映画の始まりで先に見る。
そして本編では、
「なぜ、この人はここへ辿り着いたのか」
を追っていく。
結果の一部を先に提示することで、
物語には倒叙的な性格も生まれる。
これは単なる編集上の遊びではない。
この作品にとって、かなり大きな意味を持った。
これまでボクは、
観客が主人公へ感情移入するのはかなり難しいと感じていた。
彼が何を考え、どこへ向かっているのか。
導入が少しマゴマゴして、見えにくかったからだ。
ところが、冒頭で未来を一度見せると、
観客は主人公を見る目を変える。
何気ない表情。
女性との距離。
ほんの小さな所作。
それらすべてに、
「この先に何かがある」
という予感が宿る。
同じショットであっても、
置かれる場所が変わるだけで、意味が変わる。
これが編集の面白さだと思う。
もう一つ、以前提案していた仕掛けがある。
ただ、それについては今回、
監督自身がまだまとめ切ることができなかった。
無理に入れれば良いというものでもない。
作家が育つ時間には、それぞれ速度がある。
焚き火の中で、ゆっくり燃える大木のようなものもある。
無理に小枝になる必要はない。
一本の作品だけでなく、
作家性そのものを育てていくこと。
その方が、長い目で見れば大切なのだと思う。
結果として、今回の六つ目の変更だけでも、
時間軸の見え方は大きく変わった。
そして、ボクが狙っていたものの一部は、
別のかたちで成立したように感じている。
一つ目と二つ目の大幅なカット。
そして六つ目の冒頭変更。
この組み合わせによって、
主人公の男性と女性の所作から感じ取れるものが、
以前よりもずっと浮かび上がってきた。
説明が増えたからではない。
むしろ、
説明を減らしたからである。
映画が少し、
“大人になった”。
そんな印象を受けた。
もちろん、まだ編集を整える必要はある。
けれど、映画が少し大人になったことで、
合成、色彩補正、字幕テキスト、音響効果のデザインについても、
進むべき方向が見えてきた。
そうした仕上げが加われば、
映画はさらに輪郭を持って立ち上がってくるだろう。
さて、冒頭に書いたように、
ボクは餃子屋にいた。
注文した餃子がジューシーに焼き上がるまでの時間。
店の外へ出て、ある監督に電話をした。
今回の編集について感じたことを、一つずつ伝えた。
そして、もう一つ。
タイトルについても話した。
いまの編集によって、
この映画が何を描こうとしているのか。
その匂いが、以前よりもはっきりしてきた。
だからボクは、
タイトルを、もう一度変えてみてはどうか。
そう率直に伝えた。
タイトルは、単なる名前ではない。
観客が映画に出会う、最初の入口でもある。
映画ポスターを見た人が、
「これは何の映画なのだろう」
と思う。
そして、
「少し観てみたい」
と思う。
実は、その瞬間からもう映画は始まっている。
映画を“大人な作品”にしていくということは、
映像を難しくすることではない。
説明を増やすことでもない。
むしろ、
観客を信じることなのかもしれない。
映画に映っているものだけが、映画ではない。
画面の外にあるもの。
語られなかったこと。
人物が言葉にしなかった感情。
あるいは、
見えなかった誰かの存在。
映像という情報は、
人間の瞳というレンズを通って、
それぞれの頭の中で再構築される。
だから映画は、
一つの正解として存在するのではない。
観客の数だけ、
少しずつ違う映画になる。
今回届いた編集版を見て、
この映画がようやく、
観客に解釈を委ね始めた。
そう感じた。
とても嬉しい変化だ。
以前は、
「ここを分かってほしい」
と、映画の側が説明していた。
いまは、
「あなたは、どう見ますか」
と、少し距離を取っている。
その距離が生まれると、
映画は不思議と近くなる。
まだ仮編集である。
タイトルも変わるかもしれない。
音も色も、まだ完成していない。
それでも一本の映画が、
少しずつ映画になっていく瞬間は、
たしかに見えてきた。
この作品が完成したとき、
冒頭で見た“未来”の意味を、
観客は最後にどう考えるのだろう。
それはもう、
ある監督だけが決めることではない。
その続きを決めるのは、
映画館の暗闇に座った観客になる。
ある監督の映画は、
そこまで来た。
あと少し。
作品の今後については、
To Be Continued…
Written by
出町 光識
ライター編集者/プロデューサー・ディストリビューター
1968年 東京文京区に生まれ。日本映画学校 第一期生として卒業。
一度は撮影スタジオで助監督として働くも挫折。その後、震災にあったことを機に、ふたたび映画の道へ戻ることを決意。40代半ばにして、日本映画大学に編入学を果たし、映画理論を学びほぐす。卒業後には映画Web媒体でライター兼、編集長を経た後、映画配給を始める。現在は株式会社ゆかし代表となり、『朧の華火』『恋の遠隔操作』では製作を担当。
趣味は休日のプロレス観戦、仙女の推し活をしている。


