【REVIEW 04】『ハイポ』映画評|狼男の古傷は、《セラピー・スリラー》という手へ変身する(河合のび)

手は、どうしようもなく優しくて、どうしようもなく暴力的だ。

目の前に、悲しみから嗚咽する人がいる。手は、その人の背中をさすったり、その人の手をとることもできる。あるいは、その人の首に両の手をかけ、嗚咽が聞こえなくなるまで絞めあげることもできる。

傷ついた心身に再生の希望をもたらす力と、不可逆の破滅をもたらす力。矛盾する二面性を持つ手は、その手の主である人間の心そのものと言っていい。

アディソン・ハイマン監督自身のハイポコンドリアック(病気不安症)と心の崩壊の体験に基づいて制作され、彼の半自伝的作品でもある『ハイポ』においても、手は象徴的に描かれている。

例えば、主人公ウィルは陶芸作家として活動しているが、電動ろくろを用いて作陶をする彼にとって、手は重要な仕事道具だ。恋人ルークとワルツを踊る時にも、愛する彼の手を握るのはウィル自身の手。身体的なスキンシップや、その先にあるセックスにおいても、愛撫の役割を担う手は欠かせない。

本作の作中では『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)の有名な《ろくろ》シーンがブラックユーモアも織り交ぜてオマージュされているが、引用元の名シーンでも恋人たちの手は官能的に描かれ、愛する者同士のセックスを象徴している。また「手当て」という言葉の俗説を今も多くの人々が信じているように、人は手を介して他者の体温を感じることで、愛とか癒しといった目に見えないものを感じようとする。

一方で、リンド(坊や)だった頃のウィルを絞め殺そうとしたのは、息子である自身を愛してくれているはずの実母の手だった。

「手は、誰かを愛するものではなく、誰かを傷つけるもの」……精神を病み、息子への愛情自体は残しながらも、月夜に変身する狼男のように豹変することがあった実母の手で深く刻まれた、古傷。その古傷を閉じ続けるために、ウィルは陶芸の仕事を……手によって誰かを傷つけるのではなく、《愛に溢れた家庭の食卓》には欠かせない存在・食器を作れる仕事を選んだのかもしれない。

しかし、「とうに死んでしまった」と扱うことで直視を避けていた18年越しに、「母は今も生きている」という痛感を突き立てられ、古傷は再び開いてしまう。「自分の手は、母のように誰も傷つけたくない」という強迫観念が、誰かを傷つけるかもしれない手を、絶対に動かすまいと麻痺させていく。そして麻痺だけでは足りないと、ついには刃で切り裂いていく。

「母と息子の心の確執を描いた映画」「手を《人間の心の在り様》として描いた映画」と聞いて、心理学・哲学・神秘学の習合映画を多数制作してきたアレハンドロ・ホドロフスキーの『サンタ・サングレ/聖なる血』(1989)を思い出した方もいるだろう。ホドロフスキーが「初めて商業映画を意識した作品」と言われる同作もサスペンス・スリラータッチで、主人公の亡き母との確執による苦悩と魂の解放の過程を奇妙奇天烈な映像美学で活写している。

サスペンス・スリラーというジャンルが、ホドロフスキーの手によって《セラピー・スリラー》に変身したというべき『サンタ・サングレ』だが、『ハイポ』は同作の孫あたりに位置付けられる映画かもしれない。だが、『ハイポ』の方がより《セラピー・スリラー》としての純度が高いと感じられるのは、やはり切実さにある。

異性間でのセックス以上に、同性間でのセックスにおいて、手はより重要な役割を担う。それは、私自身の経験でもある。そんな手が、もし「誰かを愛するものではなく、誰かを傷つけるもの」だと思い込んでしまったら、そこにはどれほどの絶望が生じるのか。「命を絶つ」と考えてしまうほどの絶望に至るのではないか……。

その不安と恐怖は、ウィルがクィアという属性を持つ主人公ゆえに、より切実なものとなる。そしてウィルの物語を通じて、私たちも、その切実さに共感できる……いや、痛感できるのだ。

統合失調症の症状にたびたび見られる「自身の心の陣地(領域)を侵されている」という妄想は、ウィルの心を容赦なく追い込む。迫り来る侵入者の恐怖から逃れるために手を乱暴に振り回してしまい、それは他者に対する暴力へと変貌してしまう。自分の手が、豹変し誰かを傷つける手=《狼男》の手と確信してしまい、絶望は加速する。

映画の終盤、ウィルは狼男に包丁を突き立てるが、狼男が死ぬことはなく、ウィルの苦しみも終わらない。「心の治療は、フィクションのように簡単には決着できない」「それは、《そういうもの》じゃないんだ」と、アディソン監督は語る。どこまでも現実と地続きなセラピー・スリラーの真価は、そこにある。

ラストシーン。山中の高台にある精神病院に入院したウィルは、ベンチに座って高台からの風景を眺める。その左隣には、自己に寄り添ってくれるルークが座り、ウィルは彼の肩にもたれかかる。そして右隣には、着ぐるみを着ているのが《大人》ではなく《子ども》だと分かる狼男が座り、ウィルは鋭い爪が生えている彼の手を優しく握る。

山の頂の天候はすぐに変わり、かつ荒れやすい。だが、山の頂に辿り着かなくては、風景が晴れ渡る瞬間を見ることもできない……アディソン監督が自己の古傷を直視することに苦悩しながらも「それでも描きたい」と完成させた、セラピー・スリラー『ハイポ』の結末。

この映画を観終えた時、あなたが少しでも癒されていることを、心から願う。

(映画ライター / 河合のび)

Written by

河合のび

1995年静岡県出身。映画配給レーベルCinemagoの映画宣伝・統括にして詩人。映画評を寄稿する一方、『キック・ミー 怒りのカンザス』『Kfc 食人連鎖』のキャッチコピー作成、『獄舎Z』の字幕翻訳を精力的に手がける。2025年公開のタン・チュイムイ監督・主演作『野蛮人入侵(原題)』では、日本公開版タイトル『私は何度も私になる』を命名した。