誰もが最初は、16mmフィルムで撮影された映像と演出の質感で「近年発掘・修復された半世紀前のフッテージ」と錯覚する。しかし、古典的なマカロニ・ウエスタンかと思えば、イタリア・ジャッロな真紅の鮮血が画面にまみれるスプラッター描写が大連発。そして「声は大きいが非道く脆い権力者」という現代アメリカ風刺が垣間見えたところで、自らの魂を死神に明け渡す契約で復讐を果たすという怪談的、あるいは神話的な結末で物語は幕を引く。
あらゆるジャンルを飲み込みながらも、消化不良を起こさずに、1本の映画という形を成す。それは西部劇というものが、怪談から神話まで、あるいは先住民虐殺を肯定した西部開拓時代から人種差別が根深く残る現代まで、縦横無尽に物語同士をつなげられる“エンタメの交差点”ともいうべきジャンルだからだと信じている。
よーく見なければ、何一つ世の中の役に立たなさそうに見える、究極の嗜好品。それがエンタメ。監督オースティン・スネルと盟友アダム・ジャファースは、自分たちの資金の許す限りで“最高のエンタメ映画”を追求すべく『THEY CALL HER DEATH』を企画した。
彼らが愛ゆえにオマージュを捧げたマカロニとジャッロは、いずれも1960年代のイタリアで生まれたエンタメ映画のジャンル。特にマカロニは、かつてイタリアがアメリカ西部劇を真似て自国で作った西部劇だ。半世紀以上の時を経て、アメリカ人が“マカロニの真似っこ”を自国で撮る。一見すれば「矛盾と時代錯誤だらけの愚行」かもしれないが、よーく見れば「ウィスキーやワインのように時を経て熟成され、より一層“純度”が高まったエンタメ映画の解禁」にも感じられる。
なぜ、“あの頃”のエンタメ映画に惹かれるのか。オースティンたちは、マカロニもジャッロもリアルタイム世代ではない。しかしながら、超・大量消費社会における現代のエンタメはリアルタイムで観ている。だからこそ、単なる過去の時代への憧憬ではなく、少年時代を輝かせてくれた名作映画が持つ「エンタメの“純度”」を見つめ直すことで、作り手としてエンタメ映画の原点を再考したいという思いが強いのだろう。それは同じく西部劇を愛し、今も配給という“映画の仕事”を続けている私自身も抱えているものだ。
また彼らは、自分たちが愛する往年の映画ジャンルをただ模倣するのではなく、あくまでも“再構築”に苦心した。でなければ『THEY CALL HER DEATH』はただのごっこ遊びで終わり、トランプ政権誕生以降の“気持ち悪い”アメリカを、映画にも反映しなかっただろう。かつてのエンタメ映画ジャンルの本質を徹底的に分析し、それを現代でどう扱うべきか。懐古主義を超え「そのジャンルだからこそ、今を生きる人々に伝えられるもの」を考え抜いた結果、オースティンたちはマカロニが持つ“異端”そして“反逆”の精神の銃口を、自らの生きる現実である現代アメリカへ向けたのだ。
かつてのエンタメ映画への愛とエンタメが持つ“人の心を動かし、伝える力”の純度を信じるオースティンたちが「名作映画の質感の完全再現」と「現代アメリカへの強い反逆の意志」を弾丸のごとく込め、ブッ放した『THEY CALL HER DEATH』の物語。タランティーノたちの“フェイク・グラインドハウス”な映画とは一線を画す「“今”を生きる西部劇」の魅力を、現代アメリカの社会的背景からは少し遠い日本の観客にどう伝えるべきなのか……その難問への答えとして、『皆殺しに手を貸せ』という邦題の命名、そして映画配給・宣伝レーベル「Cinemago」史上初の吹替版制作という挑戦へと至った。
吹替版制作では『マニアック・ドライバー』(2021)、『唐獅子仮面/LION-GIRL』(2024)などで知られ、30年以上アメリカで活動を続けてきた映画監督・光武蔵人が“超訳”のもと吹替版脚本を執筆した。アメリカ・日本双方の社会背景を知ると同時に映画愛にも溢れた人物であり、映画をアメリカから日本へと橋渡しする案内役としてこれ以上ない人選だった。
映画における翻訳は、単なる言語の置き換えではなく、作品の解釈そのものを変え得るほどの強大な力を持つ。時に“超訳”と呼ばれるようなタイプの翻訳は、その最たる例だろう。今回の吹替版では、オリジナル版(原語版および字幕版)から多くのセリフを追加したことで、登場人物たちの心理はより明確に描かれ、ナレーター役を務めた死神のおかげで観客に対する“語りかけ”の要素が一層濃くなった。追加セリフ内には新たな名作オマージュも盛り込まれたほか、吹替版の主人公モリー役・松本梨香や大ベテラン・堀内賢雄をはじめ、キャスト声優陣の“真剣”と“遊び心”が織り成す熱く楽しい演技も見逃せない。
こうした吹替版における翻訳の方針に対し「元の作品に忠実であるべきでは」と感じる人々は必ず存在するし、そう感じること自体は決して不自然なことではない。ただ、翻訳には必ず訳者の意志が介在し、翻訳もコミュニケーションの一種である以上、受け手により必ず形が変化するのも自然なことだ。そして最も重要なのは、「その翻訳が、作品の本質を掬い取っているのか」の一点だろう。
黒澤明の珠玉のエンタメ時代劇『用心棒』が、当時無名だったイタリア人監督セルジオ・レオーネの手で西部劇『荒野の用心棒』(1964)へ生まれ変わり、あまつさえマカロニブームの火付け役となる世界的大ヒットを記録するなど、誰が想像できただろうか。後に訴訟問題が起こった『荒野の用心棒』だが、同作は確かに『用心棒』の本質……「“純度”の高いエンタメ」を見事に翻訳していた。『THEY CALL HER DEATH』を“超訳”した『皆殺しに手を貸せ』も、それと同様の挑戦であったと私は信じている。そして、挑戦は自己満足の域を超えて少なからず達成できたからこそ、私はこの映画をより多くの人々に楽しんでほしいと心から願い、今も行動を続けている。
(映画ライター / 滝澤令央):パンフレットより

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