統一されたひとつの存在としての自己、というものがややこしいのは、「そんなものは幻想である」と切って捨てるにはあまりにも強烈な実感を伴うからであり、また社会そのものがそれを前提として形作られているからである。現代の世界において「他者性」の重要さにスポットライトが当てられるのも、そのような「自己」が本来的に備えているはずの尊厳を取り巻く状況が、かつてなく注目されるようになったからに他ならない。
原理的にホラー映画の恐怖は、少なくとも表層的な意味においては「他者性」のうちにある。モンスターや殺人鬼が、敵意に満ちた異質な存在としての「他者」の表象だということには誰もが首肯せざるを得ないだろう。ところがホラー映画の場合、その「他者」と「自己」の境目は次第にぐらつきはじめる。優れたホラー映画の主人公は、自明と思われた自己の同一性にぐらつきを感じ、自らが瓦解していくような感覚を味わうと同時に、決定的な異物だったはずの「他者」と「自己」との境界線もまた溶解してしまったことを知る。ゾンビや吸血鬼はそういう状況を端的に表すものだが、悪魔や「ボディ・スナッチャー」に憑依されたりすることも同じこととみなせるし、「期せずしてモンスターを生み出してしまうこと」や、敵対的な「他者」に同じレベルかそれ以上の暴力を持って立ち向かうことですら、同様に「他者」と「自己」の境界を曖昧にするものだと考えられる。決死の思いで怪物を倒し、血まみれで立ち尽くす主人公は既に怪物そのものなのであり、自明だったはずの「自己」はどこかへ消え失せてしまっている。
『女』という作品がおそろしく興味深いのは、これが「偏在するかのような同じ『女』に、超自然的に翻弄される3人(実際はプラス2人)の男の恐怖」を描いた物語でありながら、見方によってはその「男たち」が全員同一人物かもしれないと気づかされるからだ。彼らにとって「女」の実在があやふやなものに感じられるのは、彼(ら)自身の「自己」が脅かされているからで、そのことが映画のラストではっきりする。「後輩」が玄関のインターホンの音を耳にすることが「できる」のは、劇中の「男たち」すべてにとって「自己」と「他者」の境界線が限りなくぼやけて、恐怖のうちに霧散してしまったからなのである。
(髙橋ヨシキ:映画評論家)*パンフレットより

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