子供らにいじめられていた亀を助けた善良な漁師は、海中の竜宮に招かれる。竜宮では時を忘れるほどの歓待を受けるが、地上を思い出した漁師は帰りたいと願う。
しかし漁師が地上に帰ると、そこでは数百年もの年月が経過しており、彼を知る者は皆亡くなっていた。そして、竜宮の姫から「決して開けてはならない」と渡された玉手箱を開けた漁師は、箱から溢れた煙を浴びて老人と化した……。
……昔話『浦島太郎』のあらすじだが、「玉手箱を開けた浦島が老人と化す」という結末は、明治期に普及した通称《近代版》に見受けられるものだ。
そして“元ネタ”の浦嶋子伝説は、多くの近代版『浦島太郎』との差異が存在する中で、その結末は「玉手箱を開けた浦嶋子は鶴と化し、不老長寿となる=常世の国で暮らす、神とも呼べる存在となる」だった。
なぜ近代版『浦島太郎』の結末は浦嶋子伝説と同じ、“めでたき”ものではなくなったのか……
その理由を考えると、「昔話『浦島太郎』をただの動物報恩譚・異郷淹留譚の典型的物語に留めずに、『より面白くて魅力的な物語にしたい』と考えた“誰か”がいた」「その“誰か”が考え抜いた果てに生まれた脚色が、『人間の残酷な現実を突きつける』という悲劇的結末への改変だったのでは」という想像に行き着いてしまう。
どれほど善良な人間も、快楽に抗えずに堕落する。
しかし人間がどれほど快楽と堕落を追求しようと、死に至るまで追求できる人間はごく僅かで、結局は死から逃げ出そうとするが、生物ゆえに最後には死に追いつかれ、清算を強いられる……近代版『浦島太郎』の物語は、そう解釈もできる。
「より面白く、より魅力的に」……
純粋にそう考えた“誰か”は、他者の悲劇的な結末を覗き見ることを古来から愛し続ける人類のために、その業の深さを理解した上で、現在まで多くの子供たちに愛される近代版『浦島太郎』を作り上げた。その行為を批判できる者は、とっくのとうに死んだ。
ここに、その“誰か”の精神的血脈をひく末裔がいる。
山田純という映画監督で、彼は「より多くの人が面白く魅力的に感じる映画」を制作した結果、退屈と快楽の果てに食人という人類最大の“刺激”に行き着くも、結局は堕落し切ることができず、最後には破滅する人間・サトウの物語を紡ぎ上げた。
「より面白く、より魅力的に」……その言葉にどれほどの人間の業が、罪が、呪いが込められているのかは、小説、映画、音楽と多くの創作物に触れてきた山田監督は十分に理解している。
その上で、彼は近代版『浦島太郎』を生み出した“誰か”と同じ道を選び、業と罪と呪いにまみれた“優れた作り手”になろうとしている。『竜宮の誘い』は、その覚悟をもって生まれた稀有な作品だ。
“善良な漁師”とは程遠いサトウが、キャバクラ「竜宮城」で開いたのは、あらゆる不都合が捨てられるゴミ箱。あるいは、電子情報で満ちた暗く深い海が広がる、スマートフォンという箱。
箱から溢れ出てきたのは、ギリシャ神話では「あらゆる災厄」とも「神々の祝福」とも表された、残酷な現実。
そういえば映画館という空間も“箱”に例えられがちだが、スクリーンから溢れ出てくる過去という“異郷”に満ちた光を浴びて、残酷な現実を体感する私たちは、浦島太郎といえるかもしれない。
だとしたら、映画館という玉手箱の中で『竜宮の誘い』という光を浴びた私たちは、どうなるのだろうか。
きっと鶴と化すよりも、老人と化すよりも、面白くて魅力的な結末を迎えるに違いない。
(河合のび/詩人)


