現在、2本のインディーズ映画の編集作業に立ち会っている。
ひとつは、松田彰監督の『朧の華火』。
そしてもうひとつは、
自分の映画を抱えてCinemagoへやって来た、
ある若い自主映画監督の作品である。
ふたりは、年齢も違えば、映画をつくってきた時間も違う。
映画との向き合い方も、現場での振る舞いも、おそらくまったく違う。
それでも、それぞれの場所で編集作業に向き合いながら、
「どうすれば、これを一本の映画として観客へ届けられるのか」
という時間と向き合っている。
今回は、その若い監督のことを書いてみたい。
彼は、自分でつくった映画を抱え、いくつかの映画館へ直接売り込みに行った。
自主映画をつくった若い監督が、自ら作品を映画館へ持っていく。
それ自体は、珍しいことではない。
けれど、映画をつくったからといって、映画館で上映してもらえるわけではない。
ある劇場では、上映を見送られたという。
そして、そのあとにボクと出会うことになった。
最初に話をしていて興味を持ったのは、
彼がいわゆる「映画青年」というより、どこか研究者のようなタイプだったことだ。
物静かに自分の作品について話し、考え、こちらの話を聞き、
それを一度持ち帰って、また考える。
ボクの周りに自主映画監督はたくさんいるけれど、
こういうタイプの若い作り手には、あまり会ったことがなかった。
もちろん、映画そのものはまだ粗い。
演出にも、編集にも、音にも、劇場で観せる一本の映画として考えれば、
手を入れなければならないところがある。
ただ、そこで、
「まだ未熟だから駄目だ」
と終わらせてしまうのは、簡単である。
むしろボクは、
“ここからどこまで変わるのだろう。”
ということの方に興味を持った。
だから、もう一度、
ポストプロダクションをやり直してみないか、と提案した。
編集を見直す。
音を整理する。
作品全体のテンポを考える。
撮影してしまったものは変えられない。
けれど、撮影後にも映画にできることは、思っている以上にたくさんある。
例えば、劇場上映を望むなら、大きく二つの方法がある。
ひとつは、自分たちで費用を出して映画館を借り、自主上映会を開くこと。
もうひとつは、作品を映画館へ持ち込み、
「この映画を上映したい」と、劇場支配人に思ってもらうこと。
どちらが正しいという話ではない。
自分たちで場所を借りて上映することにも、大きな意味がある。
ただ、彼は後者を選んだ。
自分でお金を払ってスクリーンを確保するのではなく、
もう一度作品と向き合い直し、
映画そのものを整えて、映画館に「上映したい」と思ってもらう。
ならば、
その道を一緒に歩いてみようと思った。
いまボクは、断られた映画館に再見してもらうための伴走をしている。
今回は、これまで若い監督と関わってきたときとは、
少し違うこともしている。
口頭で「あそこを直した方がいい」
「ここは考え直した方がいい」と伝えるだけではなく、
編集や作品整理について、かなり具体的な指示書までつくった。
もちろん、その通りに直せば映画が良くなる、という答えではない。
映画に、そんな便利な正解はない。
指示書は、答えではない。
何を考えればいいのかを考えるための地図。
ボクは、そんなものだと思っている。
こちらから答えを渡してしまえば、映画はその人のものではなくなる。
だから、「ここがおかしい」ではなく、
「なぜ、ここにこのショットがあるのか」
「観客は、この人物をどう見ているのか」
「このシーンは、本当に必要なのか」
そんなことを一つずつ考えてもらう。
そして彼自身が、自分の映画に答えを出していく。
映画監督になるのに、免許はない。
1本撮ったその日から「映画監督」と名乗ることだってできる。
けれど、
映画をつくることと、
映画を観客へ届けることの間には、
思っている以上に長い距離がある。
いま彼は、その途中にいる。
劇場公開まで辿り着けるのか。
まだ分からない。
それはボクにも分からない。
けれど、最初に映画館へ断られたときの作品と、
いま編集し直している作品は、少なくとも同じではいない。
少しずつ、映画になろうとしている。
それなら今は、それでいいのだと思う。
映画館に選ばれるかどうか。
その答えが出るのは、もう少し先だ。
Written by
出町 光識
1968年 東京文京区に生まれ。日本映画学校 第一期生として卒業。
一度は撮影スタジオで助監督として働くも挫折。その後、震災にあったことを機に、ふたたび映画の道へ戻ることを決意。40代半ばにして、日本映画大学に編入学を果たし、映画理論を学びほぐす。卒業後には映画Web媒体でライター兼、編集長を経た後、映画配給を始める。現在は株式会社ゆかし代表となり、『朧の華火』『恋の遠隔操作』では製作を担当。
趣味は休日のプロレス観戦、仙女の推し活をしている。


