近頃のボクは、
「忙しい。」
その一言ばかり、口にしている。
仕事のせいなのか。
それとも、歳のせいなのか。
自分でも、よくわからない。
そんなボクを見かねてか、
家人は、ときどき、
「ご飯でも食べに行こう。」と、外へ連れ出してくれる。
前回は、ホルモン屋だった。
今回は、外国人で賑わう街の片隅で、
ベトナム料理を食べた。
不思議なもので、
店に流れる異国の言葉を聞いているだけで、
頭の中を占領していた仕事が、
ひとつ、またひとつと、
席を立っていく。
昔のボクは、結婚なんて重荷だ。
家族なんて、
なくても生きていける。
そんなふうに、強がっていた。
今でも時々、
他人様には、そんなことを言っている。
たぶん、照れ隠しなのだろう。
けれど、正直なところ、
こうして食事に誘い出してくれることが、
ボクにとっては、
いちばんの気分転換になっている。
人生には、
自分では変えられない
調子というものがある。
仕事が重なる。
問題が起きる。
気持ちが沈む。
同じ音とリズムばかりが、
頭の中で鳴り続ける。
そんなとき、
誰かが隣で、
そっと別の音を鳴らしてくれる。
それだけで、
人はまた、明日へ向かうことができる。
なるほど。
これが「転調」というものなのか。
もっとも、
国語の教員である家人に言わせれば、
「それ、音楽用語でしょ。」
と添削されるかもしれない。
先生と暮らすというのは、
日常生活にも、ときどき赤ペンが入る。
油断ならない。
けれど、
連れ添うという関係は、
毎日、「愛している。」
だの、「月が綺麗ですね。」
だのと、
言い合うことではないのだと思う。
まして、
国語の先生を相手に、
「月が綺麗ですね。」
などと言おうものなら、
出典について、
ひと講義始まりそうである。
それよりも、
「ご飯でも行こうか。」
その一言で、
人生の調子を、
少し変えてくれる人が隣にいる。
案外、
そういうことなのかもしれない。
歳を重ねれば、
美味しいものを
美味しいと思って食べられる日も、
決して当たり前ではなくなる。
一緒に食べに行けることだって、
永遠ではない。
ならば、
食べられるうちに、
食べておこう。
少しくらい、
太ったってかまわない。
まあ、食べすぎた翌朝だけは、
体重計から、
容赦なく赤ペンが入るのだ。
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MITSUNORI DEMACHI
株式会社ゆかし 代表取締役


