【REVIEW】『ハイポ』映画評|不利であるはずの母性が暴走するとき(ヴィヴィアン佐藤)

世間一般通常の母親と子供の関係を見ると、子供と比較すると母親とは圧倒的に不利な存在だ。

自分の胎内から生まれ出てきた子供は、自分の一部であり、自分の分身だと当初は疑いなく思っている。しかし、子供が成長するに従い自分とは全く異なる人格で、全く異なる価値観や幸福観を持っていることに気付いた瞬間に、母親は自分は何もなす術がない事に絶望する。自分の限られた人生の中で培った経験や思考において、自分とは異なる一個人の幸福を願うことは出来ても、自分自身は完全に無力だということを痛感する。

故に親は子に対して圧倒的に不利な存在で、ある意味において「親」として生涯未熟で弱い立場である。一方、子供は自分自身の人生において、親に対しては強く、有利で、「子供」として完全性を持つ。

しかし、この『ハイポ』における母親のケースは例外だ。子供は完全に自分の一部であり全て思い通りになると信じており、異なる人格の一個人を完全に支配しているとさえ思わない。一方、ウィルは大人になり、諸悪の根源の支配的な母親でさえ他人と捉え、気遣いが生じてしまう。

成人のウィルは陶芸家として働いているが、そもそも陶芸とは身体機能面への治癒的リハビリテーションとしての効果が立証され、精神病院はじめ様々な臨床現場で陶芸は実施されている。ウィルが無意識に陶芸家の道へと進んだことは決して偶然ではないだろう。ウィルには18年前の出来事から自ら立ち直ろうとする自己治癒的な生への強い渇望があったのだ。

また、仕事場での窯の扉が重いことは、母親との関係や経験を封印してきた自身の閉じられた無意識のイドに通じる部分であり、その扉は重く開きにくい。敢えて自分でそうしてきたからだ。その扉を開放してしまうことは、閉じ込めていた自分の過去と対峙することでもあったのだ。

そして後半、ウィルは自身の分身であるオオカミが後ろ手で一緒にろくろを回すシーンが描かれるが、これは『ゴースト/ニューヨークの幻』へのオマージュか。ろくろを回し徐々に起立していく粘土は男性器のメタファーでもある。

また、母親から郵送されてくるのではなく、手持ちで玄関先に置かれていたふたつの段ボールの中身は、母親が母親らしく振る舞う痕跡ではなく、相変わらず自己中心的な母親の要素で詰まっている。肉声さえテープレコーダーとして物質化され混入されている。それを包丁で開けることは、母親の腹部や子宮を切開する象徴である。しかしそこには子供を想う母性はなく、未熟で歪んだ精神が一気に噴出する。

ウィルの携帯電話へ母親からのボイスメモが蓄積されていくにしたがい、ウィルの心身ともに神経が追い詰められていく。

幼少時代に母親がウィルの携帯電話を没収するシーンがあるが、現代社会において携帯電話とは最もパーソナルなツールでその人自身の超個人的な空間と言える。

そして、劇中、ウィルは5人の精神科医師に診療を受けるが、全員が連携していない。現代において社会、個人の生活、健康や精神状態を全体的に把握している人間はおらず、全てが断片的で虚実や善悪さえも曖昧になっていることが分かる。

本体は生涯不利で不完全なはずの母性が、成熟せずに完全なまま暴走を続ける状態は、現代社会の最悪な悪夢を生み出す。

(ヴィヴィアン佐藤:美術家/ドラァグクイーン)*パンフレットより

Written by

ヴィヴィアン佐藤

美術家/ドラァグクイーン
美術家、文筆家、非建築家、ドラァグクイーン。すべてで異端。ドラァグクイーン歴30年。全国の町興しコンサルタントを歴任。尾道観光大使。サンミュージック提携タレント。大正大学客員教授。「私が新宿」「新宿とは私」と公言するほど深い新宿愛を持つ。