【REVIEW 02】『皆殺しに手を貸せ』映画評|今、《西部劇が好きだ》と口にする覚悟(河合のび)

1903年、アメリカ。かのキネトスコープを発明したエジソン社が、アメリカ西部ではなく東部で撮影したサイレント映画『大列車強盗』から、西部劇映画は始まったという。

のちにエジソン社がいつものように特許権紛争を起こし、同社からの圧力を嫌った映画関係者は西部へと活動拠点を移した。それが、西部劇の撮影にうってつけの土地……カリフォルニア州ロサンゼルス・ハリウッドが“映画の聖地”と呼ばれる転機となった。

映画知識が豊富な方ほど、「“西部劇”の定義は?」という疑問の回答に悩むだろう。

「19世紀後半・西部開拓時代末期のアメリカを舞台に、フロンティア精神を持つ白人の主人公が、人々を傷つけ開拓を阻む無法者や先住民たちと対決する娯楽活劇」と言い切るには、アメリカ西部開拓史を描いた大河時代劇としての『幌馬車』(1923)は無視できないし、物語の舞台がアメリカではなくカナダな『北西騎馬警官隊』(1940)も同様だ。

しいて当時のアメリカ産西部劇に一つの共通項を挙げるなら、それはやはり「フロンティア精神」なのだろう。

西部開拓時代のみならず、「開拓」と「独立」の二大標語で自らの歴史を築き上げてきたアメリカという国家を象徴する思想だからこそ、アメリカ人にとっての西部劇は時代劇どころか、神話にさえ受け止められるのだろう。

2回の世界大戦を経て「自由と民主主義」という表看板を掲げる軍事・経済超大国となり、「開拓」にも「独立」にも具体性のあるゴール地点が徐々に失われ、大義名分という銃口を向けられる敵の姿すら見失っていった冷戦時代に突入したのも、1960年代以降のアメリカ産西部劇の衰退とつながっているのかもしれない。

その中で現れたのが、ソード&サンダル映画の人気低迷などから「アメリカの時代劇をイタリアで撮る」という奇妙な矛盾のもと生み出され、勧善懲悪という欺瞞の否定、開拓のためなら虐殺も辞さなかったフロンティア精神への批判などを描いた“アンチ・アメリカ産西部劇”としてのマカロニ・ウエスタンだった。

……さて、少しネットで調べたら出てくるような西部劇の歴史概要は、ここまで。これからは昔の話ではなく、今の話をすべきだろう。

2025年、アメリカ。第47代アメリカ合衆国大統領として再選を果たしたドナルド・トランプは「メキシコ湾を『アメリカ湾』に改称する」「中国ではなくパナマに与えた運河を奪還する」と宣言。「米国は再び成長する国家となる」「富を増やし、領土を拡大し、都市を建設し、期待を高め、新しく美しい地平線にアメリカ国旗を掲げる国家になる」「フロンティア精神が、我々の心には刻まれている」と豪語した。

前述の通り、フロンティア精神は「開拓と独立という標語に基づく、人間の向上心」という誇りの光に満ちた側面だけでなく、時には殺人という不可逆の暴力としても現れたように「目的のためなら“障害物の徹底的排除”という手段も選ぶ、究極の行動力」という流血の河と骸の山で形作られた側面も孕んでいる。

トランプは「偉大なるアメリカ」を取り戻すべく、贄を肯定するフロンティア精神を掲げようとしている。そしてアメリカ国民の多くが、そんな彼を大統領に選んだ。

国の繁栄を支えた名もなき人々が遺した時代の意志と受けとめつつも、現代では負の側面も併せ持つ思想として慎重に扱うべきフロンティア精神を、最も危うい形で蘇らせようとする現代のアメリカ……中西部カンザス州に暮らし、西部劇をこよなく愛する映画監督オースティン・スネルは「それは違うだろ」と感じた。

そして西部劇を愛する一方で、“全て”を肯定することはできなかった過去のフロンティア精神、あるいはフロンティア精神を“今”全肯定しようとするアメリカに対するアンサーとして、『皆殺しに手を貸せ』の物語を生み出した。

『皆殺しに手を貸せ』が名作マカロニ・ウエスタンへのオマージュに満ちているのも、“アンチ・アメリカ産西部劇”でもある同ジャンルで「フロンティア精神を持つ善なる開拓者が、国家の繁栄を阻む悪に必ず勝利する」という幻想を盲信し、犠牲を肯定する西部開拓時代へ逆行しようとする現代アメリカを批判したかったからだろう。

……まぁ、そういう側面も、確かにあるのだろう。

ただ、実際に『皆殺しに手を貸せ』を観た映画好きなら、そこまでヤヤコシイ考察を巡らせずとも、オースティン監督がアメリカ産西部劇ではなく、マカロニ・ウエスタンにオマージュを捧げているワケを、誰もが悟るはずだ。

「あぁ、なんだ」「コイツ本当に、マカロニが、西部劇が好きなんだな」と。

西部劇で描かれる思想の全てを、肯定はできない。ただ、それでも自分が西部劇を好きになり、今も愛し続けているという記憶を、否定はできない……恐らく西部劇を愛する誰もが抱えているであろうアンビバレントな映画愛が、全編からひしひしと伝わってくる。

現代において西部劇を愛するのは「時代錯誤」の烙印を押されても致し方ないことであり、西部劇の世界へ逆行するアメリカの否定は自己否定であることも理解した上で、それでも西部劇を撮る。マカロニ・ウエスタン誕生の経緯のごとく、どこまでも矛盾に満ちた映画作りには、どれほどの覚悟が必要だったのだろう。

『皆殺しに手を貸せ』という映画は、「自身が暮らす今のアメリカへの風刺が盛り込まれた、現代アメリカ人による逆輸入マカロニ・ウエスタン」あるいは「映画オタクのごっこ遊び映画」と受け取れる。

ただ、そんな解釈以前に、この映画評を最後まで読んでもらえるほどに『皆殺しに手を貸せ」に興味を持ってくれたアナタだけでも、どうかオースティン・スネル監督とその仲間たちの「覚悟」を感じとってほしい。

それこそが、オマージュもパロディも超えた、現代アメリカを生きる映画人たちの「ホンモノ」の覚悟だと。

(映画ライター / 河合のび)

Written by

河合のび

1995年静岡県出身。映画配給レーベルCinemagoの映画宣伝・統括にして詩人。映画評を寄稿する一方、『キック・ミー 怒りのカンザス』『Kfc 食人連鎖』のキャッチコピー作成、『獄舎Z』の字幕翻訳を精力的に手がける。2025年公開のタン・チュイムイ監督・主演作『野蛮人入侵(原題)』では、日本公開版タイトル『私は何度も私になる』を命名した。